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医療法人社団 成風会の本院 高橋クリニックは日曜も診療します。分院にタカハシクリニック(松戸)とカムクリニック(松戸)があります。
                電話でのお問い合わせはTEL.03-3854-3031

〒123-0841 東京都足立区西新井15-15-9

診療案内medical info および 医師としての家系ルーツ

診療内容

内科・外科・胃腸科・循環器科・リハビリテーション科

診察時間 日曜も午前診療行います。(祝日休診)

 
午前09:00~12:30 /  /
午後15:00~18:30 / /  /  /

日曜日も午前中 診療行っております。

  • 閑話休題 高橋英毅日出雄・薫 医師としてのルーツ……
  • 母の叔父 
  • 黒須巳之吉物語
  • 明治18年千葉県香取郡で大工黒須重次郎の長男として生まれる。大正元年 旧制第一高等学校より東京帝国大学医学部卒業 東京慈恵会医科大学第二代学長 金杉英五郎先生の千代田区駿河台の金杉病院 奉職 大正2年 金杉病院よりスイス バーゼル大学医学部ジーベルマン耳鼻咽喉科教授教室に留学 大正4年 帰国 金杉病院 副院長 大正10年 東京慈恵会医科大学 東京病院 耳鼻咽喉科部長 大正12年関東大震災 千代田区永田町自宅焼失 東京慈恵会医科大学東京病院を退職し、千代田区永田町 旧自宅跡に耳鼻科診療所開設 昭和3年 妻 貞子没 昭和10年 スクリバ・トモエと再婚 昭和15年 東京慈恵会医科大学より学位論文「日本人側頭骨錐体尖蜂窩の臨床解剖学的研究」にて医学博士授与 昭和19年 戦災のため 永田町の病院を閉鎖し神奈川県湯河原町に疎開 昭和21年 湯河原にて温泉旅館楽山荘を改築し黒須耳鼻咽喉科病院開設 昭和23年 湯河原駅前に病院を移転 昭和25年 医療法人財団葵会設立 昭和26年 港区六本木に分院開設 昭和32年第6回国際耳鼻咽喉科学会出席(米国 ワシントン) 汎太平洋外科学会会員 日本気管食道科学会特別会員 日本耳鼻科学会終身会員 日本扁桃研究会名誉会員 昭和35年国際ロータリー東京南クラブ会員 昭和44年 日本医師会最高優功賞受賞 昭和47年11月17日没 黒須巳之吉先生を太い根を有する木の幹とし黒須一族では多くの医師が誕生しており高橋英毅・日出雄・薫3人もその枝葉におります。
  • 黒須巳之吉 業績集
  • 医学学術論文 日本人側頭骨錘體尖蜂窠ノ臨床解剖學的研究Klinisch-anatomische untersuchung der pyramidenspitzenzellen des schläfenbeins bei Japanern. 耳鼻咽喉科臨床會, 1938.6
  • ほぼ100年前の産業医の役割の重要性が叫ばれるはるか前に、労働環境の改善を訴え騒音難聴の発生に警告を与えた新聞記事「労働問題の一懸案たる音と耳の関係 鉄道従業員や鉄板工場から聴力減弱や聾者が出る事実 何故に之を軽視する」の一文を中外商業新聞に載せております。新聞記事文庫 衛生保健(3-010)  中外商業新報 1919.8.9(大正8)
  • 翻訳 「福島県史22 人物」福島県 P273 クルト・マイスナー原著「シュネール小伝」黒須巳之吉訳 Schnell Henry  オランダ人 会津藩軍事顧問 1863(分級年)ころプロシア領事館に勤務1867年会津藩に迎いられ、藩主松平容保より刀と衣服を拝領 平松武兵衛と称して会津若松に住む。戊辰戦争の際は、奥羽越列藩同盟側として西軍と戦い、新潟で弟エドワードと武器・弾薬購入を周旋1869(明治2年)邦人を伴い渡米、カリフォルニアにワカマツ・コロニーを建設するが失敗した。
  • 黒須巳之吉博士と森島久代先生

    日本と米国の麻酔科学会の重鎮で米国コロンビア大学麻酔科名誉教授の森島久代先生は

    1959年米国に留学される際に、ドイツとスイスの大学に留学経験のある耳鼻咽喉科医の黒須巳之吉先生からアメリカで研究、臨床研修を強く勧められたと述べておられました。



    黒須巳之吉先生の石碑 千葉県香取郡南玉造 龍華寺境内

    平成29年4月

    母と日出雄、薫(内科医)と記念写真 平成元年夏 
     医局にて

     

    日本医大スクリバ文庫にて
     Drs

    薫 英毅 日出雄
         

    平成29127

     


    森島久代先生の御祖父織田先生の石碑 千葉県成田山

    森島久代先生は長くコロンビア大学にて産科麻酔学の臨床、研究、教育に尽力され、その発展に大いに貢献されました。それによって、日本政府より瑞宝中綬章を受章されました。また、2012年12月8日 第116回日本産科麻酔学会学術集会で特別講演に招聘され、その帰りに当院に直接電話をかけて下さり、黒須巳之吉先生の人柄や業績などもお伺いいたました。

  • 母の叔父黒須巳之吉先生の座右の銘荘子斎物論胡蝶の夢

    明治生まれの黒須巳之吉先生は医師の患者に対する心得を述べたものである。この銘を読んで幕末から明治時代の移行期、日本で近代西洋医学教育の父を言われるポンぺを思い浮かべる。

    ヨハネス・レイデイウス・カタリヌス・ポンぺ・ファン・メーデルフォールト(Johannes

    Lijdius Catharinus Pompe van Meedervoort18291908

    1857年、幕末時代に来日し、長崎で初めて基礎科学から組織的にオランダ医学の教育を行った。長崎大学医学部の前身である医学伝習所を直弟子の松本良順と共に作った。ポンぺは医学全般を一人で基礎から教え、そのカリキュラムはオランダユトレヒト陸軍軍医学校で学んだ教育方法を応用した。近代西洋医学教育の父といわれる所以である。松本良順とその弟子司馬凌海のオランダ語通訳がポンぺの講義の理解、内容伝達には大きな功績があった。ポンぺの診療する態度は患者の身分に関わらず、貧乏人は無料で診察し、武士、町人、日本人、西洋人の区別なく平等に行った。江戸末期の封建社会制度の中、門人たちは医師にとって何ら差別なく、貧富、上下の階級差もなく、ただ病人があるだけと養生所で身をもって教えられた。このことは黒須巳之吉先生の“醫の任たるところ、ただ病を察するのみ、富貴を看るなかれ、貴賤を見るなかれ、唯、病を察することのみ”の書と、医療の信条は互いに相違するものではないと思われる。長崎大学医学部の校是となっているポンぺの言葉がある。「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職業を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものでなく、病める人のものである。もし、それを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」というもので、醫の神髄ともいえるポンぺの言動は門弟たちに深く心に刻み込まれたという。そこで、長崎の軍医ポンぺのもと、蘭方医学を学んだ順天堂大学創始者佐藤泰然の実子松本良順、千葉九十九里出身の関寛斎、佐渡出身の司馬凌海らが登場する、司馬遼太郎の長編歴史小説―“胡蝶の夢”を思い出した。

    その中で特に興味を引く人物が島倉伊之助すなわち、後の司馬凌海(1839-1879)である。幼少時に伊之助を薫陶した祖父伊右衛門に連れられ江戸に出て、13歳で松本良順のもと

    オランダ語を学んだ。凌海は語学の稀にみる天才といわれ、獨、英、蘭、仏、露、中国語の6か国に通じて、明治4年に独逸文典字類、明治5年には日本初といわれるドイツ語辞典「和洋独逸辞典」を出版した。ポンぺの医学で学び、類まれなる語学の才能を生かして、ポンぺの通訳を務めたり、その後明治初期の西洋医学はドイツ医学に傾注して、政府お雇い外国人のドイツ人医学者ミューラーLeopold MullerやホフマンTheodor Hofmannが教育に従事する際の通訳の重要な役割りも果たした。また、東京に呼ばれ医学校で英国人W,ウイリスWilliam Willisの通訳するほかに語学塾春風社を開き、学生達にドイツ語を指導した。明治9年、司馬はローレンツの通訳兼医学教師として公立医学所、のち愛知医学校、愛知県立医学校、名古屋医科大学、現名古屋大学医学部の教授に就任している。医学校で外国人教師を招聘して、凌海以外に誰も通訳できる者がいなく、酒好きの凌海が二日酔いで欠席すると自然休講となったとか、破天荒な生活や反社会的な行動などと、ドイツ人ミュレルやホフマンと直接会話した時、あまりに上手にドイツ語を話すので、あなたはドイツに何年いましたかときかれ、実際に外国に行ったことなかったなどいろいろな逸話がのこっている。通訳の際、日本語に翻訳出来ない言語は漢文に精通していたので即座に造語した。現在、我々が耳にする蛋白質Eiweiss,十二指腸Zwolffingerdarmなどがある。しかし、明治12年、肺結核に罹り、熱海で転地静養していたが、東京に戻る途中、高熱でうなされ、籠の中で意識が朦朧をする状態で、凌海は若い時に読んだ荘子の“胡蝶の夢”を思い出し、俺は蝶だと大声で叫び、神奈川県戸塚で寂しく死んでいったという。彼は享年若干40歳だった。ともかくも、短い、密度の濃い生涯であったといえる。

    後年、彼の天才的な能力と言動に奔放不磊、奇異なところがあり、サヴァン症候群かアスペルガー症候群ではないかとも言われています。

    胡蝶の夢

     

    荘子・斎物論

     

     

    原文

    昔者、荘周夢為胡蝶。

    栩栩然胡蝶也。

    自喩適志与。不知周也。

    俄然覚遽遽然周也。

    不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢周与。

    周与胡蝶則必有分牟

    此之謂物化。

     

    いつのことだろうか、私荘周は夢の中で蝶になりました。

    それはひらひら舞う蝶でした。その楽しみに酔いしれ、我を忘れる程でした。

    しかし、ふと目を覚ました私はやはり元の私でした。

    でも、荘周が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で荘周になったのでしょうか。

    私は蝶なのか、人間なのか分からなくなってしまいました。

    荘周と蝶との間には必ず区別が有るはずである。

    彼はいわゆる仮の姿で、本質は変わらないのではないか。

     

    夢の中と現実がわからなくなることがある。どちらが本当の自分なのか。

    自分とは何なのか。物の本質とは何なのか。

    夢と現実との区別が明瞭でない、自分と物との区別のつかない物我一体の境地

    物化とは、本質的に一つである物が様々に変化を繰り返す、万物は変化を繰り返す

    自分も蝶もその変化のうちに過ぎない、本来は区別などないと荘子は考える。

    胡蝶の夢百年目  人生のはかない喩え 短く空しい人の夢

    荘子 中国戦国時代の思想家 「斎物論」より

     

    小生が大学医学部を卒業した1972年春、大学院外科学教室に入学するため、神奈川県湯河原町の黒須病院黒須巳之吉先生に会いにゆき、紹介状をもらって、東京慈恵会医科大学の阿部学長との面会に新橋へ出かけたのを思い出します。この年の秋、黒須巳之吉先生は湯河原町にて88才老衰で他界されました。

     

    野外の蝶採集(長野県)


     

    荘子の斉物論

    中国戦国時代の宋(現代の河南省)に生まれた思想家、道教の始祖の一人とされた

    荘子(荘周)が著述した斉物論の中の一遍の胡蝶の夢という詩

     

    原文の書き下し文にすると

    昔者むかし、荘周そうしゅうは夢で胡蝶こちょうと為なる。栩栩然くくぜんとして

    胡蝶なり。自ら喩たのしみて志に適かなえるかな。周たるを知らざるなり。俄然がぜん

    として覚さむれば、則すなわち遽遽然きょきょぜんとして周なり。知らず、周の夢に

    胡蝶と為なれるか、胡蝶の夢に周と為なれるかを。周と胡蝶とは、則すなわち必ず

    分有り。此れを之これ物化ぶっかと謂いう。

     

    現代文の訳

    いつのことたっただろうか、私荘周は夢の中で蝶になりました。それは、ひらひらと

    自由に舞う蝶でした。その愉しみに酔いしれ、我を忘れる程でした。しかし、

    ふと目を覚ました私は、ああやっぱり元の自分でした。でも、荘周が夢の中で蝶なったのか、

    それとも蝶が夢の中で荘周になったのでしょうか。私が蝶なのか、人間なのか、分からなく

    なってしまいました。周と蝶との間には必ず区別が有るはずである。

    これはいわゆる単なる仮の姿であるのだ。

     

    漢詩の熟語意味

    栩栩然  ひらひらと飛ぶ様子

    適志   気持ちがのびのびとする

    俄然   突然

    遽遽然  びっくり驚く様子

    与    疑問の意

    分    区別

    物化   万物の変化 本質が一つである物がさまざまに変化すること 万物は変化を

         繰り返すが、本来は区別などないという考え

    荘子の斉物論の胡蝶の夢の物化について

    物化 広辞苑より 1){荘子}物が変化する事

             2) 天命を終えて死ぬこと

    死ぬ意味で、現代でも物故という文字も使われている

    すべての物は生死流転のなかで、常に変化し続ける、夢のなかの

    蝶も自分も本物で、その本質は同じである。夢と現実と判然としない世界。

    宇宙のすべては変化するものである。広い視野に立ったCosmologyの原理に一致する

    荘周も蝶も真実であり、己で、本質は同じであるが、物質として区別があるだけである。

    無為自然の境地、一切斎同の荘子の哲学的な考え

    荘周の説話で、斉物論とは 万物の全て斎(等しい)とする論理で、是と非、生と死、

    貴と賤、夢と現実との対立を論ずるより、いずれも肯定して受け入れ、己が満足して生きて行けばよい  万物斎同の世界で遊ぶ

    毀誉褒貶きよほうへん どんな人生でも起こり得る、褒められ、人に持ち上げられる自分もいれば、謗り貶される自分がいて、どちらが本当の自分であるかでなく、どちらの自分も本質的には同じである、

     

    逍遙遊の世界

    胡蝶の夢は百年目は晩年になって自分の人生を振り返ってみて、夢のようであったと思うこと

     

    故事

    人生とはまさに胡蝶の夢で、華々しい栄光に輝いた後、彼はすぐに亡くなった。

    Our life is but a span.

    荘子の思想

    国の政治の知識や商売の知識など、世俗の知識にはとらわれるべきでないという考え

    老子の思想に近いーーー老荘思想

     

    思想哲学

    すべてが虚無、人生ははかないという意味

    また、物の変化は表面で現れたもので、形の上で違いがあるが、その本質、己はには

    変わりない、夢と現実、真実と虚ろの対立を論ずるより、いま生きている世界が本当の

    世界で、素直に受け入れ、それを自由に生きて、楽しむべきであるという。

    中国ではこの胡蝶の夢は{荘周夢蝶}という四字熟語で表しているようです。

    いろいろな意味に表現して、例えれば、人生ははかなく夢のようだという意味や悠々自適の人生に憧れる意味などのようです。

    胡蝶の夢“ 司馬遼太郎の歴史小説

    江戸幕府の倒壊と戊辰戦争の軍医松本良順、銚子出身で順天堂で学んだ関寛斎、抜群の記憶力と

    語学学習の天才的な能力、非社会性の人間関係の持ち主で司馬凌海などの登場人物像が克明に描写された連載小説

    胡蝶の夢 (歴史小説)新潮社   司馬遼太郎

    第一巻 P183より参照

     

    医者は、人相を見てはいけない。

    「これは、医者は患者の善悪、貧富を見てはいけないという意味。」

     

    まだ未熟な島倉伊之助(司馬凌海)は恩師で、御医師いわゆる将軍家や大名に仕える医官の松本良順に、自分の実の父である佐藤泰然が開いている佐倉、順天堂を勧められた。蘭方医学を学ぶなら佐倉に行けと言われていた。そこは下総佐倉の城下にある蘭方医学塾「順天堂」で、松本良甫の養子となり松本良順となった彼の実父の佐藤泰然がひとりの手で開講した順天堂という塾であった。その良順が簡潔に佐藤泰然の人物像を書いている。泰然は好奇心に駆られ、若干25歳で江戸の蘭方医家の門に入り、のち、長崎にいってオランダ語を学び、そこで蘭方外科を身に着けた。その後、薬研堀で一時開業していたが、佐倉の第5代藩主堀田正睦の厚遇を受け、佐倉で蘭方医学を始める事となる。堀田正睦は幕府で2回老中を務めて、対外問題や西洋の事情に詳しい人物だった。また、手塚律蔵を招いて、日本で初めて英語を体系的に研究始めさせた。佐倉順天堂の私立蘭方外科兼病院は、当時大阪の緒方洪庵塾(適塾)と並んで、日本の東西2大塾となっていた。佐倉順天堂は当時の外科で南蛮流、紅毛流と異なり、乳がん手術、卵巣嚢腫、睾丸腫瘍の摘出を無麻酔行っていたが、以前から行われた華岡流外科のような麻酔を使用する事はなかった。このような順天堂の塾に、良順から勧められた伊之助は順天堂の門をたたいた。玄関脇の書生山内六三郎がまず面会した。六三郎は予め伊之助の噂、稀な記憶力とオランダ語の読解力は師匠の良順より抜群優秀であると聞いていた。次に塾頭の外科医術の天才をいわれた山口舜海(のち佐藤尚中)に会った。舜海は泰然のもとで蘭方医学を学んで、塾頭を務めていた。この面会した際、舜海が伊之助にいった言葉が上記の“医者は人相を見てはいけない”という言葉である。舜海は毎朝、順天堂で外科の原書すなわちセリウスの外科書を講義していた。泰然先生もこの書を読んでいくつもの手術を行っていた。ただし、語学重視の塾であった適塾と違い、順天堂は原書を読むより、治療に巧みになることを重視した。セリウスの外科書19世紀の前半独逸外科学会の中心的な医師セリウス(Maxilliam Joseph von Chelius 1794-1876)の著者で、いわゆる セリウス外科書(Handbuch der Chirurgie, zum Gebrauch bei seinen Vorlesungen)は1857年まで8版を重ね11か国語に翻訳され、ドイツで広く流布した教科書であった。わが国ではその蘭訳本―Leerbook der Heilkunde naar dezeutigabe  vertaalden vermeerderd door.Pool GJ, Amsterdam1830-1832が佐藤舜海(後の尚中)らにより翻訳され、瘍学全書として知られる。セリウスは1819年以後、母校のハイデルベルグ大医学部で外科の正教授を務め、眼科教室を創設して、その名声をおおいに高ら占めた。眼科学にもその著 Handbuch der Augenheilkunde “2巻が1839~Stuttgartでも出版されている。

    大阪の蘭学教育塾 「適塾」

    緒方洪庵はつねに医戒をかかげて塾生に諭している。

     

    医の世に生活するは人の為のみ。己がためにあらず。病者に対しては、唯病者を

    視るべし。貴賤貧富を顧みることなかれ。

     

    ポンぺも同じ趣旨の言葉を述べているが、洪庵は蘭医フーフェランドの思想と言葉から

    出て、ポンペも母国ユトレヒト大学で医の倫理教育を受けているにちがいない。

    司馬遼太郎 胡蝶の夢2巻p181参照

     


    Enchiridion Medicum

    現代教養文庫 医戒 幕末の西欧医学思想

    杉本 つとむ氏解説  社会思想社より参照

     

    Christoph Wilhelm Hufeland 1762-1836

    ドイツ人医師

    1780イエナ大学入学

    1781 ゲッテイゲン大学編入

    Makrobiotik長生術を出版

    1810 ベルリン大学病理学Pathologie教授

    1833 フーヘランド慈善財団設立

    1836 Enchiridion medicum出版

    日本では杉田成卿や緒方洪庵らにより翻訳された。

    緒方洪庵の「扶氏経験遺訓」として訳された。

    杉田成卿は「解体新書」翻訳出版で有名な杉田玄白の孫にあたる。

     

    醫戒

    医師としての心得

    医術と医師の使命 医師と行動

    医学手引書、医学必携

    Handbook

    Enchiridion 語源

    日本語訳 手引書、簡潔な参考書、教科書、教本、

    ある主題あるいは場所に関する特定の情報を与える簡潔な参考図書

    (a concise reference book)

    en-   cheir   手の意味   ion idion-ラテン語の名詞語尾

          kheir  ghes  印欧語根 hand手の意味  surgery  surgeon

       cheiro-

     

     

このページの先頭へ スクリバと黒須医師家系

日本の近代医学
明治時代お雇い外国人医師


Ervin Von Baelz
内科学       ベルツ―――――荒井はつ(花)

Julius Karl Scriba
外科学       スクリバーーーー神谷ヤス
                I 
                I  
長男フリッツ・スクリバ(病死) 次男エミール・スクリバ(病死) 三男ヘンリー・スクリバ
                  I             
                  I  岩立エミ子       須栗場
             スクリバ・トモエ
                II
                II(再婚)
            黒須巳之吉(耳鼻科医) 
             II     
           貞子(病死)―黒須正夫(耳鼻科医)
                   黒須吉夫(麻酔科医)――黒須 譲(内科医))

           黒須林蔵―― 黒須房男(外科医)――黒須光男(外科医)
               旧姓 黒須ゆきー髙橋英毅(外科医)―優子(歯科医)
                      ―髙橋日出雄(外科医)―高橋昭則(内科医)
                      ―髙橋 薫(内科医)

           黒須七郎(耳鼻科医)
     

ドイツ国立図書館    Deutsche Nationalbibliothek    GHD-Nummer 1102927651

ヘッセン公国人物伝 Hessische Biografie

Scriba, Julius Karl  (ID-7522)

6月5日、1848 ラインハイム 生誕

1 3日、1905 東京 没 プロテスタント

外科教師、外科医、植物学者、教授

職歴

1870-71 1年間軍医補として軍務に服す

1874    ハイデルベルグ大学医学部医師 ヴィンセント ツエルニー教授の助手

1879    ブライスゴのフライブルグ大学で教授資格を取得

/6,1881-1887 東京帝国大学医学部にて教授 外科、皮膚科、眼科、婦人科

1889-1901 東京帝国大学医学部教授職を更新

1905    聖路加病院 外科主任

1893-   ドイツ帝国日本公使館付専任医師 明治天皇の医療アドバイザー

日本における近代西洋医学の基礎を創るため、内科医ベルツ博士と共に貢献した

家族 父 ScribaEmil 1814-1886 薬剤師 ラインハイム 祖父も薬剤師

   母 Noack, Sophia 1820-1883

妻 神谷 ヤス 1228日、1865―12月3日、1982 武士神谷則貞の娘

 長女 宮下 エマ 1883旧姓スクリバ1899 Luye Miyaschitaと結婚 養蚕業

長男 Scriba ,Fritz 1885-1927 日本医大でドイツ語教師、昆虫学者

次男 ScribaEmil 1891ー1933, 東京で商社マン

3男 ScribaHeinrich 1897

J.K. Scribaの学歴、履歴

(ドイツ)

Deutsch-land

 

Chronologie

Werdengang(Career)

経歴

師事

Lehrer

 

1869

Universitat Heidelberg

ハイデルベルグ大学入学

1869

外科医 グスタフ、ジモン

医学、植物学

軍陣医学、形成医学、婦人科学

1870-1871

普仏戦争 軍医補

腎臓手術

 

1874

卒論ー脊椎彎曲症の治療法で

Doktor

医師資格

1874

ベルリン

ベルナルド、ランゲンベック教授

1875

Universitat Freiburg

1871

ヴィンセント、ツエルニー教授

フライブルグ大学

ウィーン大学で

二等助手

1871

フライブルグ大学で教授資格

一等助手

Assistant Arzt

犬の胃全摘出手術

講師

Doent

1876

ヘルマン、マアス教授

1877

ヴィンセント、ツエルニー教授

ハイデルベルグ大学へ転任

1879

1880

教授資格

Habilitation

論文 脂肪栓塞論

Untersuchungen uber die Fettembolie

1881

Unuversitat]in Tokio

東京帝国大学医学部外科Lektor

医学部外科教授

Lektor

 

ドイツでのスクリバ博士の外科教授Vincenz Czerny

Vincenz Czerny教授 from Wikipedia

u  ツエルニー教授の伝記で若い時は生物学が好きで、特に蝶Butterflyが好きだったと記載あり。

u  (1842-1916)

u  プラハとウィーンで医学を学ぶ

u  1868 外科医師となり

u  テオドール ビルロートの元で助手

u  1871 ウィーンで助教授

u  1871 フライブルグ大学で外科教授

u  1877 ハイデルベルグ大学教授



 

スクリバ文庫

日本医科大学付属図書館 (非公開展示物)

スクリバ博士の長男フリッツが日本医科大学でドイツ語教師をしていた事から

家族より図書館に寄贈された。

大学教師時代の外科書に個人のメモ書き筆跡

2017,1,28撮影

古書

Dosch,Scribaの植物書籍

Julius Karl Scriba(1848-1905)

と植物ドイツ語書籍発行共著

Ludwig Karl Friedrich Dosch(1.Mai 1827~14,August 1908)

 

Eine erste Auflage 1873

Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthumes Hessen. und der angrenzenden Gebiete mit besonderer Berucksichtigung der Flora von Mainz, Bingen, Frankfurt, Heidelberg, Mannheim und Kreuznach.-H.L.Schlapp,Darmstadt. XLII+640 Seiten

 

Flora der Blüten-

 

Blüte (単数)------Blüten複数形   ̈blossum樹木の花

   Blüten blätter  花びら(複)

 

Die zweite Auflage 1878

Excursions-Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen mit besonderer Berucksichtigung der angrenzenden  Gebiete fur Gymnasien ,Realschulen und Seminarien.-H.L.Schulapp, Darmstadt. LXXIX +572 Seiten

 

Die dritte Auflage 1887

Bearbeitete L.Dosch alleine,  Co-Autor J.Scriba 1881 in Japan

 

Apotheker

薬剤師の家系のSchultz , DoschScriba 著作の植物書籍

Friedrich Wilhelm Schultz
1804 Zweibrucken-
1876 Weissenburg im Elsass
Phamaceut, Botanischer Schriftsteller
Sohn eines Apothekers

Ludwig Karl Friedrich Dosch

1827 Erbach-1908 Darmstadt

Privat Lehrer

Evangerischer Pfarrer

Heiratet,tochter des Apothekers

Julius Karl Scriba

Julius Karl Scriba

1848 Reinheim-

1905 Tokio

Chirurg,Professor

Sohn des Apotheker

 




スクリバ博士の趣味  植物

 ハイデルベルグ大学植物園

     興味の範囲

The International Plant Names Index (1999年~)

 

Pteridophytes シダ植物   

 

Fossils 化石

Spermatophytes 種子植物

Flora der Bluthen- und Hoheren Sporen-Pflanzen des Grosszogthums Hessen und der

Angrenzenden Gebiete mit besonderer Berucksichtigung der Flora von Mainz,Bingen,

Frankfurt,Heidelberg,Mannheim und Kreuznach,bearbeitet von L,Dosch,Pfarrer und

J,Scriba,Pharmceut,,Darmstadt(Verlag von H,L,Schlappp) 1873

 

Excursions-Flora der Bluthen- und hoherer Sporenpflanzen mit besonderer

Berucksichtiung des Grossherzogthums Hessen und der angrenzenden Gebiete fur

Gymnasien,Realschulen,und Seminarien bearbeitet von L,Dosch und Dr,J,Scriba 

Darmstadt (Verlag von H,L,Schk\lapp) 1878 Oct,(Excurs,-Fl,Hessen)


クコの学名

クコ 枸杞
Lycium rhombifolium Dippel ex
Dosch et Scriba

薬用植物園リスト

Kitasato  Pharmacological Gardenより

伝統薬原料植物      ナス科

果実を乾燥したものクコシ

滋養強壮薬用酒、漢方で補養薬

クコの根が生薬 地骨皮(ジコッピ)

血圧降下、血糖低下、解熱作用

クコの実 ドライフルーツにして

薬膳料理の食材となる

 



スクリバ博士と植物

1869,ハイデルベルグ大学にて医学と薬学を学んだ

1870/1871年、普仏戦争に軍医補として従軍

終戦後、3年目にAllgemeine  Beitrage zur Diagnostik der Unterleibgeschwulsteの論文で大学を卒業した。

1879年、フライブルグ大学で外科講師を務めた。

植物学にも興味を示し、ヘッセン大公国の植物に関する著書を出版した。

著作

Flora der Blüthen- und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthums Hessen, Darmstadt 1873

 

Excursions-Flora der Bluthen- und hoheren Sporenpflanzen mit besonderer berucksichtigung des Grossherzogtums Hessen und der angrenzenden Gebiete,Giessen 1878

The International Plant Names Index (Copyright 2005)

Author Details       Scriba,Julius Karl (848-1905)

Area of Interest

Pteridophytes , Fossils , Spermatophytes

Eponymy   Scribaea Borkhausen(1793) 植物の学名の命名者に付けられる

Information Source

from R,E,G,Pichi Sermolli 1 March1991  from R,W,Kiger 11 July 1991

biographical details

Scriba ,julius Karl(1848~1905)

German (Hessen) physician, botanist

Dr,Medicine Heidelberg 1875

Assistant at Freiburg 1875-1879  Lecturer 1879-1881

Professor of surgery at the university of Tokyo 1881-1905

Ludwig Karl Friedrich Dosch L,DoschJ,Scriba

HessenでのFlora投稿論文)

1,Mai 1827  Erbach ~ 14,August 1908  Darmstadt

Von Dosch & J.Scriba beschriebene Pflanzen

Campanula hirta var.cordifolia Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:314

Diplotaxis muralis var. viminea(L) Dosch & J.Scriba, Excurs.-Fl.Hessen 1878:435

Equisetum limosum var.linnaeanum (Doll)Dosch &J.Scriba, Fl.Hessen 1873:9

Equisetum limosum var.verticillatum (Doll) Dosch & J.Scriba. Fl.Hessen

1873:9

Equisetum ramosissimum var.paniculatum Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:10

Equisetum ramosissimun var.simplex(Doll) Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:11

Potamogeton gramineus var.latifolius(Mert.&W.D.J.Koch) Dosch & J.Scriba , Fl.Hessen 1873:191

Ranunculus divaricatus var.heteophyllus Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:455

Sedum schultzii  Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:439

Thalictrum galioides var.angustifolium Doscj & J.Scriba, Excurs.-Fl.Hessen 1878:400

Publikationnen

Dosch L. & J.Scriba 1873: Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthums Hessen unt der angrenzenden Gebiete mit

besonderer Berucksichtigung der Flora von Mainz, Bingen, Frankfurt, Heidelberg,Mannhaim und Kreuznach.-   H.L.Schlapp,Darmstadt.XLII+ 640Seiten

 

Dosch L. & J.Scriba 1878: Excursions-Flora der Bluthen-und hoheren Sporen -Pflanzen mit besonderer Berucksichtigung der angrenzenden Gebiete fur Gymnasien, Realschulen und Seminarien.- H.L.Schlapp, Darmstadt. LXXIX +572 Seiten.

Julius Karl Scriba(1848-1905)

と植物ドイツ語書籍発行

共著

Ludwig Karl Friedrich Dosch 1.Mai 1827~14,August 1908

 

Eine erste Auflage 1873

Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthumes Hessen. und der angrenzenden Gebiete mit besonderer Berucksichtigung der Flora von Mainz, Bingen, Frankfurt, Heidelberg, Mannheim und Kreuznach.-H.L.Schlapp,Darmstadt. XLII+640 Seiten

 

Flora der Blüten-

 

Blüte (単数)------Blüten複数形   ̈blossum樹木の花

   Blüten blätter  花びら(複)

 

Die zweite Auflage 1878

Excursions-Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen mit besonderer Berucksichtigung der angrenzenden  Gebiete fur Gymnasien ,Realschulen und Seminarien.-H.L.Schulapp, Darmstadt. LXXIX +572 Seiten

 

Die dritte Auflage 1887

Bearbeitete L.Dosch alleine,  Co-Autor J.Scriba 1881 in Japan

 

 



         ベルツ花夫人とスクリバ巴夫人


群馬県草津西の河原にあるベルツ博士とスクリバ博士の胸像


P244 参照

ベルツ花夫人とスクリバ巴さん

      

 

 

 ベルツ花夫人とスクリバ巴さん

 

明治時代、西洋医学を日本に導入し、医学教育で指導した内科ドイツ人医師エルウィン フォン ベルツ博士の日本人花夫人と ほぼ同時期に来日した、外科教授のドイツ人医師 ユリウス スクリバ先生の次男エミール スクリバの元妻であった日本人巴夫人が再婚して、現、黒須巳之吉博士夫人となったともえさんとの関係についてです。

黒須巳之吉先生はわたくしの母の叔父にあたり、東京永田町で耳鼻咽喉科病院院長の耳鼻科医でした。

昭和初期、ベルツ博士は東京帝国大学医学部の教授を退官した後、夫妻はともにドイツに帰国し、生活をしばらく、共にしていた。しかし、ベルツ博士逝去後、はな夫人は日本に戻り、東京世田谷区にあった広い邸宅にいたスクリバ家族およびスクリバ巴さんと一緒に暮らし、約15年間、生涯交流を保っていたという。この間、花夫人は急性肺炎を患ったとき、ベルツ博士門弟の入澤達吉博士の診察を受けた。また、中耳炎に罹った際は黒須巳之吉博士の手術も受けたという記録があります。

ベルツ花 エルウィン フォン ベルツ夫人の生涯

鹿島 卯女 著者より

群馬県草津西の河原にあるベルツ博士とスクリバ博士の胸像

 

P244 参照

ベルツ花夫人とスクリバ巴さん



明治期近代医学を日本に導入した

ドイツ人内科医師ベルツ博士と外科医師スクリバ博士

(明治9年1876年~)    (明治14年1881年~)

 群馬県草津町西の河原にある胸像

ベルツ博士(左)    スクリバ博士(右)

草津温泉にて

 

 

ベルツ花夫人と黒須巳之吉博士の夫人で

元エミール スクリバトモエさん

黒須巳之吉博士とトモエ夫人に祖父林蔵との記念写真

兄英毅医学博士の結婚式パーテイで黒須巳之吉医学博士とトモエ夫人(1970)

スクリバトモエさん(黒須美巳之吉博士夫人)とベルツ花夫人(1929)

スクリバ安夫人と子息 エミール スクリバ

ユリウス スクリバ博士

東京大学構内のドイツ人医師ベルツ博士(右)とスクリバ博士(左)胸像

 

日本の近代医学とスクリバの伝記

明治時代 東京帝国大学医学部に招聘されたドイツ人医師
ベルツ博士ともに大学で教鞭を20年間の長きわたり取り、日本人の妻と子供と生活し、
日本の医学発展に多大なる功績を遺した。
東京大学構内と群馬県草津温泉西の河原に2人の胸像が並ぶ

内科 べルツErwin von Baelz

外科 スクリバJulius Karl Scriba
ユリウス スクリバ先生の人物像
1848年6月5日―――1905年1月3日
ドイツの外科医  ハイデルベルグ大学卒
日本の医学と教育の発展に貢献

東京帝国大学医学部外科のルーツ明治政府のお雇い外国人教師
1881年(明治14年)33歳で来日

(((明治9年)に内科医ベルツ来日))

スクリバの人柄
温和 真面目な態度 温厚な性格
教育熱心 学生に対して"決して仕方がないと言ってはいけません""

家庭  日本人女性の 神谷ヤスと結婚
   3人の息子
     フリッツ (肺炎病死)
     エミール (腹膜炎病死)
     ヘンリー  須栗場

趣味  植物採集  狩猟  日本書画 骨董
    酒  たばこ

 
 1901年(明治34年)9月
 東京帝国大学医学部の外科学教師を辞職 ――― 名誉教授
 一般社団法人日本外科学会     ―――――名誉会員
 聖路加病院外科主任として2年間勤務
 神奈川県鎌倉市で肺結核で転地療養したが、肺膿瘍で死亡 
 (明治34年1月3日) 56歳で没

エミール スクリバについて

Emil Scriba 1890~1933

 エミール スクリバは

東京帝国大学医学部の外科での西洋医学の基礎を築いたユリウス スクリバ博士

日本人富山県出身の神谷ヤスとの間に次男として東京で生まれた。世界第二次大戦

終結後に日本窒素株式会社に入社して、ビジネスマンとして活躍した。しかし、43歳の時に腹膜炎

に罹り、治療の甲斐もなく、若くして急逝した。青山霊園の外人墓地にスクリバファミリーの父ユリウス、 兄フリッツ、本人エミールと一緒に埋葬された石碑がある。そのエミールと結婚していたのがトモエさんで、後に、黒須巳之吉博士と再婚し、黒須巴夫人となった。           
エミールスクリバ夫人とベルツ花夫人

スクリバ博士とその家族写真


フリッツ スクリバについて

Fritz Scriba

文献

村元 直人氏の著作 蝦夷地の外人ナチュラリストたち(幻洋社)参照

 

日本生まれのドイツ人スクリバ フリッツ 

スクリバについて

Fritz  Scriba 1885~1927

日本生まれで日本で死んだドイツ人である。

東京の医学専門学校でドイツ語教師、日本医科大学で外国語の講師

鱗翅目昆虫類の採集家、特に北方系の昆虫に興味を持つ

昆虫学者で有名な江崎 悌三と親交あり。

父はユリウス スクリバ東京帝国大学医学部外科教授と日本人妻神谷ヤスとの長男

父親の意思によりドイツで学校教育を受け、化学を学んだ。

父ユリウスは医学のほか、植物学にも造詣が深かったが、フリッツは孤独で几帳面な性格

博物学、昆虫学に関心を持った。

1922年、と1924年に北海道、樺太に採集旅行に来ている

当時、北海道大学(旧東北帝国大学)では昆虫学者の松村 松年が熱心に昆虫学を

研究していた。

スクリバ自身の昆虫関係の論文は少なく、鱗翅目昆虫の二編(ドイツ語論文)のみ、

蛾の学名にスクリバの名が残っている。

スクリバが亡くなった後、取集した標本類はフランクフルトの博物館に寄贈された。

Scribaと蝶蛾Lepidoptera

JuliusKarl Scriba(1848-1905)の東京帝国大学外科での大学生活の余暇で、明治23年頃、医局員の土肥 慶蔵先生が収集した当時の医局日誌のなかでの逸話である。日本医事新報の史傳雑筆に“美酒”というテーマで掲載がある。土肥慶蔵氏がスクリバ先生宅に数人の若い医局員とともに呼ばれ、ある時の晩餐会ではスクリバ先生が採集した貴重な植物標本類と共に胡蝶類の標本も珍しいものがあった。その蝶の翅に巴模様の紋があったと表現している。私が察するに、これはタテハチョウ科の蝶Inachis io geishaではないかと思う。

また、長男Fritz Scriba (1885-1927) の昆虫に関してである。昆虫、動物学界でも国際的な動物分類学者の江崎 悌三先生の著作からスクリバ先生の長男フリッツについての記載がある。フリッツは日本で生まれたドイツ人、日本北方の鱗翅類研究家として異色の存在であったと述べておられる。長男フリッツと次男エミールは父の故国ドイツで教育を受けている。蝶の世界的コレクター、世界の蝶蛾類の大図鑑各巻日本円にして6~7万円する大型図鑑(Macrolepidoptera of the world)の著者で有名なAdalbert Saitz (1860-1938)が明治24年日本に採集旅行に来て、フリッツが若い時、東京に滞在している際、平河町の豪華なScriba 邸に宿泊していた。その影響か蝶蛾類の興味を持たれたのであろう。大正11年夏、昆虫学者の江崎 悌三先生は樺太の汽車の車中で採集した蛾を観察中のフリッツと偶然出会った。翌日に二人で採集に出かけ、その際に捕獲した雌雄のヒョウモンモドキMelitaea maturnatoを判定している。

東京に帰ってからもフリッツは蝶でも蛾でも卵を採ってきて、飼育によって成長させ美しい個体標本を作るのが得意であった。オオムラサキはエノキが植樹であるが、フリッツの家は麹町平河町にあって豪華、瀟洒な洋館で、庭も広く、オオムラサキも以前はよく飛んでいたらしい。江崎 悌三先生がドイツに外遊する時、DarmstadtのザイツSeitz邸を訪問する際、フリッツはザイツへの紹介状をドイツ語で書いてくれたという。その後、江崎先生が昭和3年日本に帰国して、フリッツに手紙を書いたが、なかなか返事がこなかったという。、前年の秋10月7日感冒から肺炎になり、急逝したことが、弟のエミールから知らされた。彼の標本類はドイツFrankfurt のSenckenberg博物館に寄贈されたという。

 

 

参考文献

史傳雑筆 美酒 216-218 日本醫事新報、昭和6年1月

Fritz Scriba 131-138 江崎悌三著作集 第一巻 思索社

日本生まれのドイツ人スクリバ 129-131 蝦夷地の外人ナチュラリストたち

村元 直人 幻洋社


 

Julius Scriba

 

 

美酒 (日本醫事新報、昭和6年1月)

 

 

スクリバ先生は煙草には贅を尽くしていましたが、酒にも好みが多かったようです。

先生の家の厨房にはドイツ製の良質なライン産のワインやフランス、イタリア産の香り高い美酒が常に貯蔵されていた。当時、お雇い外国人の官舎は教師館を称して、平屋の洋館でベルツ先生の官舎に隣で住んでいた、ある晩、外科医局の晩餐会が行われた。その時の先生は教室での厳格な表情と打って換わって、温和な顔付で、心から歓待されていた。先生は動植物学に造詣が深くドイツの大学生の時代に(ヘッセン大公国の顕花植物及び芽胞植物)の研究を発表した1873年。またハイデルベルグ大学外科のジモン教授の助手時代にも植物学の研究を行った1878年。また、狩猟が好きで、土曜部、日曜日には、愛犬を連れて遠方に出かけた。その際、必ず珍草異花をも採集して、書斎の奥の棚に高く標本として積み上げられ保管されていた。同時に、胡蝶類にも標本として、珍しいものがあった。それらを出して若い医局助手達に見せ、詳しく説明した。また、蝶の羽の“巴”の斑紋を指して詳しく説明した。話は、日本紋所の研究にまで及んだそうです。

食卓の上には赤白青色の美しい酒類が並び、助手たちが大いに飲んで、泥酔するものまでいた。助手たちは明治21年卒、22年卒、23年卒などの面々で、酔って講釈するもの、

漫談家になるもの、ソファーで高いびきをかくもの、刀剣を振りかざして日本舞踊のまねで悦にいっているものまで大いに盛り上がったようです。

東京大学構内にて


ユリウス スクリバ博士の墓碑とともに眠る子息の墓

DrScriba 追悼文ドイツ文.pptx へのリンク

東京青山霊園外人墓地


Professor Julius Karl Scriba スクリバ教授の人物像(性格および人柄)

1来日前のドイツで学術的業績

1848年6月5日ドイツ、ヘッセン大公国ラインハイム市にて生誕された

6月5日は生まれた日と同時に、初めて日本の横浜に上陸した日でもあるという。

父が薬剤師であったため、薬剤学を教えられ、更に植物学にも詳しくなっておられた。

1869年、ハイデルベルグ大学で医学と植物学を学ぶ。

植物と医学に関する著書

Flora der Bluthen und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthums Hessen.

Darmstadt1873 アマチュアの植物学者として評価を受け、ヘッセン大公国の“花”に関する著書を出版した。後年、日本での植物学、特に江戸時代の本草学にも興味を示した。

Untersuchungen uber die Fettembolie,Leipzig 1879(Habilitationsschrift)

Excursions-Flora der Bluthen~und hoheren Sporenpflanzen mit besonderer Berucksichtigung des Grossherzogums Hessen end der angrenzenenden Gebiete, Giessen 1888

2外科医として

来日前 ドイツ、オーストリアで外科学の飛躍的発展した時期、ツエルニー教授の元、犬で胃全摘手術に成功した。さらに、1879年 脂肪塞栓論の論文を発表して講師の資格を得た。

来日後、東京帝国大学にて

現在も手術室では、長時間常に緊張の絶えない空気で指先に集中するのは昔も同じだと思う。東京帝国大学の外科教授として、手術の時、当時の弟子たちの記録では威厳があり、相当に厳格で,周囲に激しく怒鳴る事もあったようだ。(土肥慶蔵、顎軒先生遺稿 上下巻)

“スクリバ先生”の表題で、中外医事新報に記載されているが、昭和11年12月日本医史学会

スクリバ先生追悼の夕と題して、まず近藤次繁先生がそのスクリバ先生の為人を述べておられる。南ドイツのヘッセンの人間は概して非常に人が良い。辺幅を飾らない人で、衣服の内側が破れると当時大学近所の洋服屋に行って、縫い合わせた継ぎはぎだらけの服であったという。酒と煙草は非常に贅沢で、自宅の貯蔵室には何本も良いものが取り寄せてあった。ある晩のエピソードも述べておられる。それによると、先生が病気になったとき、門人が宅に詰めかけていたところ夜10時ころ、そこにベルツ先生が入ってこられ、皆は腹が減っただろうと、この家にはいいものがいっぱい置いてあるとの事、今まで食べたことのないような珍らしいものを食べたり飲んだりしたと書いてあります。

帰りには煙草の箱から手づかみでいっぱい紙煙草をポケットにいれてもらったと述べております。それを笑いながら見ていたスクリバ先生は、“持っていけ”、“持っていけ”と言っておられましたと。

3医局員たちと

スクリバ門下生の十哲をいわれる、田代義徳を筆頭、近藤次繁、土肥慶蔵、関場不二彦。芳賀栄次郎、西山信光らが、外科医局時代および当直日誌の回顧録“スクリバ外科医医局日記”を

残してます。ヨーロッパ製の葉巻を燻らせ、各地から輸入したワインを自宅に多く保管し、時々 医局員や学生を自宅に招いて大騒ぎする豪放磊落で開放的な性格であったようです。

温和、真面目な態度、温厚な性格である。

学生に対して“決して、仕方がないと言ってはいけません”と厳しかった。

当時の宿直日誌には医局員の、高橋金一郎、佐藤勤也、小林文次郎、三宅 速、鶴田禎次郎、丸茂文良 佐藤碧海、古川栄、戸塚巻蔵などの名前が登場する。

 

4趣味と余暇

日本の文化に対する興味、識見も深く、当時の明治時代は西洋崇拝で、日本の美術品が軽視さ

れていた。日本の古い貨幣も収集していたようだ。

流失を防ぐため、自ら多くの日本書画の作品や骨董を収集した。また、植物採取の標本や蝶も収集していた。日誌の記録によると、先生の部屋で一頭の蝶標本を見たときの表現として

羽に“巴模様“があったという。日本には国産の蝶は白水隆氏のに日本産虫類標準図鑑や藤岡知夫氏の”日本の蝶“の検索図鑑を参照すると、土着してる228種の蝶が分類されている。蝶の羽の表現で目玉模様とか蛇の目模様は使われるが巴模様はいわれていない。そこで”巴“の意味を辞書で参照すると、丸く3本の矢が流れてい行くさまを表現してるという。円い斑点模様をもつ蝶は前翅と後ろ翅の左右2個づつ計4個の円形蛇の目模様があるクジャクチョウでないかと類推する。タテハチョウ科で高い山か高原に多く、当時はまだ自然環境が維持されて、平地でも比較的多くみられたのではないかと思う。学名Inachis Io Geishaで非常に美しい模様の蝶である。深紅の赤と瑠璃色に白色の孔雀様の斑紋がある。近年では環境の変化で減少傾向にある。

5家庭では

昭和11年12月4日日本医史学会のスクリバ先生追悼の夕のなかで、59頁~“スクリバ先生

を追悼す“の題で、関場不二彦先生はスクリバ家族の事を述べておられる。

狩猟が好きで、休日は軍医の経験から猟銃をもって野山に出かけたのではないか思う。

猟犬を連れて、葛飾、浦和、熊谷、宇都宮方面まで出かけた。狩猟に出かけるとき一緒にお供するのが、友人で理科大学の飯島魁先生、元外務大臣青木周蔵公使、聖路加病院のトイスラー先生などでありました。愛犬“ローラックス”と命名して可愛がり、その死別の時にも大変悲しまれ、涙を流され、死を悼み、手厚く葬ったそうです。

日本で初めて犬シェパードを飼い、大正天皇が皇太子の頃、御所に出かけ謁見したという。

長男はフリッツが病死。次男エミールはドイツに留学して、商業についたようですが、腹膜炎で若くして病死したため、その人の夫人だったのがスクリバ トモエさんで、小西を名乗っておりました。昭和8年3月東京府立第3高等女学校を卒業され、エミール夫人でしたが、亡くなられたため未亡人となり、後年、黒須巳之吉先生と再婚されました。その前にエミールとの間の娘さんエミ子がいて、目下、東洋英和女学校小学科で修学中でありますと。その後、群馬県に嫁いでいったようです。関場先生によりますと、スクリバ先生は肺膿瘍で亡くなられたと記載ありますが、実は肺結核であったようです。

 

6晩年と聖路加病院

1989年(明治32年)日本外科学会の第2回総会が開催され、第1号の名誉会員第1号で会員から推挙された。

1901年(明治34年)53歳で東京帝国大学を退職し、名誉教師の称号を与えられた。

1902年(明治35年)聖路加病院創立 

初代病院長のルドルフ トイスラー(Rudolf B Teusler)の聖路加病院の外科主任に就任した。

1905年(明治38年)56歳で鎌倉にて没す。

東京青山の外国人墓地に家族とともに眠っている。

西山信光先生の“スクリバ先生追憶会の記事に追加す”75頁~によると、スクリバの直弟子であった三輪徳富先生の弟子が西山信光先生である。ある時、横浜のドイツ海軍病院閉院で軍医が帰国するため、送別会が芝公園の紅葉館で開かれた。西山先生は森林太郎(森鴎外)先生と二人で到着したが、そのとき後からベルツ先生、さらに青山胤通先生がスクリバ先生と入られた。  ベルツと青山先生が話してる間に、森博士がスクリバ先生を紹介されたと記載してます。その中でスクリバ晩年の事を述べておられますが、スクリバの次男エミール氏の未亡人巴さんが黒須君と再婚されていたので、色々資料を調査し得たと記しています。スクリバ先生は従来糖尿病を患っておられ、1903年秋頃からひどい咳症状に悩ませれていた。頑固な咳で一度ベルツ先生に診てもらったらと勧めたが、ベルツは饒舌だからいやだと拒否されたようです。終焉の1904年の元旦、長男フリッツ氏、次男エミール氏がドイツに留学中不在で、家族では夫人と3男ヘンリー氏と久保徳太郎氏のみ、この3人で寂しく見守られ昇天されたのでありました。関場不二彦博士の話のように、先生は植物学に非常に造詣が深く、日本各地、樺太、台湾、中国、朝鮮等採集した標本を倉庫に山積し保存していた。診察した症例記録、写真等はヘンリ氏が収蔵してるという、また、エミール未亡人(巴さん)から借用した資料の中に浮世絵や書画の書家の氏名を順に記載し、その年代や印譜など整理して保管していたようです。



ベルツ通りとスクリバ通りーー草津温泉(群馬県)

 

群馬県草津町の草津温泉湯畑を中心に北側と南側に町を囲むように街道がある。

 

万座温泉方面に抜けるコスモス街道から北に分かれるベルツ通り-ーー日本の近代西洋医学の

発展に貢献し、温泉医学特に草津温泉を世界に公表した功績に内科医ベルツ博士の名称を

冠した通りである。

また、長野原から草津に向かって入る手前の天狗山通りから東方向に分かれたスクリバ通りーー明治初期に外科医としてベルツ博士をともにたびたび草津温泉に訪れた医学博士の名をとって

スクリバ通りと呼ばれている。

ドイツ出身の二人の先生はともに、明治時代初期に来日し、日本人の奥さんと約20年以上も

日本で生活し、東京帝国大学医学部にて長く教鞭をとって、西洋医学(ドイツ医学)を教授され、数多くの業績を残された。

東京大学構内と草津温泉西の河原にそれぞれベルツ博士とスクリバ博士の胸像が並んで立てられている。

 

 

西の河原で並ぶ二人の胸像

 

天狗山通り沿いにある立て看板 

スクリバ通りの標識

 

 

 

 

 

 

 

スクリバ博士

 

 

ベルツ通りとスクリバ通りの案内表示

草津町の観光マップ

 

草津温泉湯畑囲い石

スクリバ通り 群馬県草津町地図案内

Dr.JULIUS SCRIBA

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             スクリバ通りーー>

 

 


 


スクリバ博士の外科学系譜 (Julius Karl Scriba 1848-1905)

新潟市出身の蒲原 宏先生は2001年日本医史学雑誌第47巻第3号576ページに詳細に調査した結果を論文で掲載しておられる。

スクリバの外科医をしての学術的経歴と原著論文および医師としての履歴を正確に検証された。

それに依りますと、スクリバが最初に医学を学んだのはドイツのハイデルベルグ大学に入学1869年でした。翌年普仏戦争勃発のため軍医補として従軍しました。終戦後、再び

大学に復帰し、ジモンに外科学を学び1874年、卒業論文 Allgemeine Beitrage

zur Diagnostik der Unterleibsgeschwulste で医師資格を取得した、その後1年間

ベルリン大学ランゲンべック教授に師事、1875年、フライブルグ大学外科のチェルニー教授について外科を学んだ。チェルニー、カイゼルと共に犬の胃全摘出手術に成功した。

その後、チェルニーはハイデルベルグ大学の外科教授として転任した。

チェルニーはウィーンのビルロートの門下で、胃癌切除術で有名なビルロートが1881年行ったが、胃癌全摘出術の手術に大きな示唆を与えていると考えられる。その後、ヘルマン マアスがプレスラウ大学から赴任し、指導のもと、教授資格取得論文として脂肪塞栓論Untersuchungen uber die Fettembolie  Deutsch.Z.f.Chirurgie Bd.12.118-120,1880を完成させた。その他マアス法として知られる脊椎結核治療の報告も行っている。

蒲原 宏先生の論文を紹介した。

明治初期の西洋医学導入時、日本の近代医学に貢献した
政府"お雇い"外国人医師

内科医師べルツ、外科医スクリバと日本人妻の家族

Erwin von Baelz 1849-1913
東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として29年間日本に滞在
医学教育に貢献し、研究に活躍した。
関係年譜
1866 エルウィン チュービンゲン大学)医学入学
1869 エルウィン ライプチヒ大学 ウンデルリヒ教授の内科臨床講義受講
1875 エルウィン ライプチヒ大学病院入院中の留学生相良玄貞と会う
1876 エルウィン 日本に到着(明治9年)
1880 エルウィン 草津温泉に注目
1881 エルウィン 荒井はつ(ハナ、花、花子)と出会う
1888 エルウィン 荒井花子と結婚
1889 長男 トク(徳之助)誕生
1890 エルウィン 明治天皇と皇太子の侍医となる
1892 エルウィン 東京帝国大学名誉教授の称号
1893 長女 ウタ誕生
1896 長女 ウタ生後2歳で急死
1900 長男 トク(10歳)単独で渡独
1900 エルウィン 勲一等瑞宝章授与される
1902 エルウィン 東京大学在職26年間の教師生活を終える
1905 エルウィン 離日
1905 エルウィン ビュルテンベルグ国王から修道騎士十字章を受領
1907 東京帝国大学医学部大学構内のベルツ、スクリバ両教授胸像の除幕式
1913 エルウィン 大動脈瘤破裂で死去(享年63歳)
1916 トクの長男ハット誕生
1918 トクの二男クノー誕生
1922 ハナコ日本に帰国 旧スクリバ邸にてスクリバ トモエさんと共に生活
1935 ハナコ草津のベルツ記念碑の除幕式に参加
1937 ハナコ東大病院で逝去 胃癌(享年74歳)
1945 トク ベルツ東大病院にて没


業績
東京医学校で生理学 病理学 内科学 産婦人科学の教鞭をとり、近代医学の指導に多大な貢献をした。
当時の十二指腸の寄生虫発見や栄養学の脚気の研究をおこなった。
明治11年より草津温泉の温泉治療について医学的効能や化学的研究を世界的に紹介した。明治18年日本鉱泉論を政府に提出した。
日本人の人類学的研究 日本人の身体的形質の論文発表 蒙古斑
予防医学 衛生学の向上
箱根の冬凍傷の治療(ベルツ水)を考案した。
ドイツにおける柔道の普及  武道の医学的効果に着目し、健康維持に"日本人の
身体教育"出版してる。
宮内庁御用掛侍医局顧問として明治天皇、皇太子の健康管理に従事し勲一等瑞宝章と旭日大綬章を受領している。


Julius Karl Scriba(1848-1905)
東京大学医学部の外科系の教師として、明治政府のお雇い外国人医師の一人として1881年(明治14年)に着任した。当時明治政府は西洋医学を導入するに当たって、ドイツ医学を採用した。明治4年、ドイツ人教師ミュレルとホフマンが来日した。その後任として、明治7年にウエルニッヒとシュルツが来日したが、それぞれ2~3年の期間で帰国している。シュルツは外科と眼科を担当していたが、その後任に明治14年スクリバが来日、その後20年間、東京大学医学部で在職し、ベルツ同様日本人妻と家族と共に長く日本で生活した。日本の近代外科学の発展に貢献した。
歴史上 明治初期 ミュレル、シュルツ スクリバと3名のドイツ人外科医師が挙げられる。
長期間 教育に尽力したベルツと並び称せられるスクリバは日本外科学会の恩人であると言われる。

スクリバは1848年6月5日ヘッセン大公国ワインハイムに生まれた。父親は
薬剤師であった。
1869年ハイデルベルグ大学に入学、医学と植物学を学んでいる。1874年に卒業している。このころドイツやオーストリアでは外科学だ飛躍的に発展していて、彼も高名な外科教授の元、実験的に胃全摘出術を行っている。1879年に脂肪塞栓論の論文を発表し、講師の資格を得ている。1881年(明治14年)6月東京大学に着任するが、彼は非常に学術的で最先端の外科学を指導したという。長く日本に滞在したが、ベルツのように多くの記録を残さず、彼に関する書籍もほとんど無い。性格は豪放磊落で開放的であったという。1901年(明治34年)53歳で大学を辞職した後、4年間、築地の聖路加病院で外科主任を担当した。日本人妻神谷ヤスと結婚して3人の息子がいたが、長男フリッツが肺炎で病死、二男エミールは腹膜炎で病死、三男ヘンリーがその子孫として須栗場と名字を変え杉並区に住まわれている。スクリバの手術器具や顕微鏡などは東大総合研究博物館に保管されている。また、所有していた蔵書類は息子が日本医大の英語教師をしていた関係から図書館に寄贈されたという。

参照
医学近代化と来日外国人  世界保健通信社より
東大病院外科系各科のルーツ、スクリバ先生・生誕160周年 東大病院だより
No62 平成20年8月31日より
日本近代医学の父ベルツ博士と草津 ベルツ記念館発行平成15年3月30日より

TAKAHASHI Clinic高橋クリニック

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FAX 03-3898-9225

スクリバ邸とコンドル先生Josiar Conder

 

明治の西洋文明導入の時期に来日したいわゆる政府の招聘した

いわゆる“お雇い外国人”の中のドイツ人医師外科医のユリウス

スクリバ博士の住居が当時 東京都麹町平河町5丁目にあったが、

(今では現存せず) 明治29年(1896)その邸の設計と建築にあたったのが建築家の英国人コンドルConder Joseph Josiar (1852-1920)でありました。

ドイツ語読み発音でコンデール、 英語発音でコンダ―であろう。

当時はコンドル先生の名で呼ばれていたようです。

彼の代表的な建築物は政府関連の豪華な建物や財閥の建物や別荘などがあります。その中で特に有名なのが鹿鳴館、ニコライ堂、港区三田綱町の三井倶楽部などで、その他、有栖川宮邸、岩崎弥之助邸、スクリバ邸、イタリア公使館、ドイツ公使館、ベルギー公使館、古賀虎之助邸 その他多くの設計作品があります。

 

 

スクリバ邸とコンドル先生の建築物 

 

明治初期(明治10年)1877年に日本政府から招聘されたお雇い外国人でイギリス出身の建築家ジョサイア コンドル Josiah Conder(1852~1920年)です。

西洋の建築文化を伝達し、政府関連の建築物を設計し、さらに 日本人の建築家や子弟を育成し、建築教育に活躍し、日本の建築界の基礎を築きました。教師として、本格的な西洋建築に尽力された事により、東京大学工学部前庭にコンドルの銅像が建っております。

後に 建築設計事務所を開設し、多くの財界関係者の邸宅や財閥関係の諸施設なども設計し、

数多くの名建築を残しております。

鹿鳴館、岩崎久弥(現司法研修所)、上野博物館(東京国立博物館)、 三田綱町三井倶楽部、ニコライ堂(東京復活大聖堂)、 その他、 財閥の邸や施設等を多く設計しています。

港区三田綱町 三井倶楽部

 

日本文化にも深い関心を示して、また日本人を妻とし、日本画家の雅号を持ち、長く在住し、  大正9年東京で没しております。

 

その中で、 東京府麹町平河町5丁目のスクリバ邸も明治29年1896年 コンドルの作品の一つでありました。(建物は現存してません。)

ジョサイア コンドルの画集 建築画報社より


北軽井沢一匡邑と黒須老博士

 

大正末期に東京帝国大学出身の学者が集まって、北軽井沢に約5千坪の広大な土地に共同の

村を形成し、当時、一匡邑と称して10数軒の粗末な別荘が建てられていたという。村の中央に細い川が流れて、村の入り口の一番近いところに黒須巳之吉博士の小さな別荘があって、毎年、夏になると家、族とともに、避暑に訪れていた。この小さな黒須山荘は玄関も雨戸もなく、土間に面して二間の板の上に“ゴザ”を引いた質素な部屋であった。当時はここで、夏の一時期、美しく静かに流れる小川を中心に共同生活が繰り返されていた。

時が少しずつ流れ、別荘地を訪れる世代も徐々に変わり、人々も変わってゆく。また、周囲の環境も変化し、特に浅間高原一帯の開発は急速で大きなビルやホテルが建設され始めた。その結果、村の中央を流れていた小川は段々と水嵩が減り、以前の水量の十分の一にも減ってしまった。

川の上流で巨大な建物が川みずを占拠してしまい、もはや村を潤すきれいな水はなくなってしまった。(大学村五十年誌 北軽井沢大学村組合、小林 勇氏参照)

岩波書店の社長会長であった小林 勇氏は北軽井沢で大学村の別荘を訪れて、そのとき懇意にしていた黒須老博士の山荘に訪問し、一匡邑のクルミの木のことについて、氏の随筆 山中獨膳の中で書いております。クルミの木はここの地域ではたくさん見られるが、クルミの実は村の管理人が冬の野生リスのために保存しておくのだという。

 

 

 

 

 

歴史

“一匡”の意味 イッキョウ  天下をただし、治む

論語の一節“天下一匡”国を一つに正し、治める、から採ったといわれる。

一匡邑の設立

村の構想デザイン 西村伊作 大正デモクラシー期を代表する文化人で東京の文化学院創立者

軽井沢のルヴァン美術館はこの学院の建物を復元したもの

 

 

 

 

 

一匡邑と大学村

一匡邑は大正12年東京帝国大学関係者

大正2年旧一高、東京帝国大学の同窓生らによって“一匡社”が作られ同人誌“社会と国家”を発行していた

大正11年家族の保養目的に別荘地を探していた

大正12年草軽電鉄から1万坪の土地を購入、共有の資産として一匡邑として、個々に11戸の山荘をたてた。

大学村は昭和3年、法政大学関係者によって開村された。

 

 

 

地理 浅間山の麓の標高1000~1400mの高原地帯

県所在地 群馬県吾妻郡応桑村北軽井沢

 現在     吾妻郡長野原町大字

 

北軽井沢は以前 地蔵川地域であった、 1918(大正7年) 新軽井沢――草津温泉の

草軽電気鉄道があり、現在の北軽井沢の停車駅跡に“地蔵川駅”があった

 

 

 

 

 

 

 

 

北軽井沢マップ

高原風景

一匡邑の位置は軽井沢からロマンス街道146号線を下り、北軽井沢十字路交差点を左方に

曲がり、地蔵川を越え、桜岩地蔵尊を通過した左手に邑がある。

当時の写真      

 

 

黒須山荘は邑の入り口近く、小さい山荘で玄関も雨戸もない、土間兼居間に手作り椅子と

テーブルがあり、その隅に炊事道具が置いてあった。

 

現在の別荘地写真