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医療法人社団 成風会の本院 高橋クリニックは日曜も診療します。分院にタカハシクリニック(松戸)とカムクリニック(松戸)があります。
                電話でのお問い合わせはTEL.03-3854-3031

〒123-0841 東京都足立区西新井15-15-9

診療案内medical info および 医師としての家系ルーツ

診療内容

内科・外科・胃腸科・循環器科・リハビリテーション科

診察時間 日曜も午前中、診療行います。

  日・
 
午前09:00~12:30 /
午後15:00~18:30 / /  /

日曜日も午前中 診療行っております。

  • 閑話休題 高橋英毅日出雄・薫 医師としてのルーツ……母の叔父 黒須巳之吉物語
  • 明治18年千葉県香取郡で大工黒須重次郎の長男として生まれる。大正元年 旧制第一高等学校より東京帝国大学医学部卒業 東京慈恵会医科大学第二代学長 金杉英五郎先生の千代田区駿河台の金杉病院 奉職 大正2年 金杉病院よりスイス バーゼル大学医学部ジーベルマン耳鼻咽喉科教授教室に留学 大正4年 帰国 金杉病院 副院長 大正10年 東京慈恵会医科大学 東京病院 耳鼻咽喉科部長 大正12年関東大震災 千代田区永田町自宅焼失 東京慈恵会医科大学東京病院を退職し、千代田区永田町 旧自宅跡に耳鼻科診療所開設 昭和3年 妻 貞子没 昭和10年 小西・トモエと再婚 昭和15年 東京慈恵会医科大学より学位論文「日本人側頭骨錐体尖蜂窩の臨床解剖学的研究」にて医学博士授与 昭和19年 戦災のため 永田町の病院を閉鎖し神奈川県湯河原町に疎開 昭和21年 湯河原にて温泉旅館楽山荘を改築し黒須耳鼻咽喉科病院開設 昭和23年 湯河原駅前に病院を移転 昭和25年 医療法人財団葵会設立 昭和26年 港区六本木に分院開設 昭和32年第6回国際耳鼻咽喉科学会出席(米国 ワシントン) 汎太平洋外科学会会員 日本気管食道科学会特別会員 日本耳鼻科学会終身会員 日本扁桃研究会名誉会員 昭和35年国際ロータリー東京南クラブ会員 昭和44年 日本医師会最高優功賞受賞 昭和47年11月17日没 黒須巳之吉先生を太い根を有する木の幹とし黒須一族では多くの医師が誕生しており高橋英毅・日出雄・薫3人もその枝葉におります。
  • 黒須巳之吉 業績集
  • 医学学術論文 日本人側頭骨錘體尖蜂窠ノ臨床解剖學的研究Klinisch-anatomische untersuchung der pyramidenspitzenzellen des schläfenbeins bei Japanern. 耳鼻咽喉科臨床會, 1938.6
  • ほぼ100年前の産業医の役割の重要性が叫ばれるはるか前に、労働環境の改善を訴え騒音難聴の発生に警告を与えた新聞記事「労働問題の一懸案たる音と耳の関係 鉄道従業員や鉄板工場から聴力減弱や聾者が出る事実 何故に之を軽視する」の一文を中外商業新聞に載せております。新聞記事文庫 衛生保健(3-010)  中外商業新報 1919.8.9(大正8)
  • 翻訳 「福島県史22 人物」福島県 P273 クルト・マイスナー原著「シュネール小伝」黒須巳之吉訳 Schnell Henry  オランダ人 会津藩軍事顧問 1863(分級年)ころプロシア領事館に勤務1867年会津藩に迎いられ、藩主松平容保より刀と衣服を拝領 平松武兵衛と称して会津若松に住む。戊辰戦争の際は、奥羽越列藩同盟側として西軍と戦い、新潟で弟エドワードと武器・弾薬購入を周旋1869(明治2年)邦人を伴い渡米、カリフォルニアにワカマツ・コロニーを建設するが失敗した。
  • 黒須巳之吉博士と森島久代先生

    日本と米国の麻酔科学会の重鎮で米国コロンビア大学麻酔科名誉教授の森島久代先生は

    1959年米国に留学される際に、ドイツとスイスの大学に留学経験のある耳鼻咽喉科医の黒須巳之吉先生からアメリカで研究、臨床研修を強く勧められたと述べておられました。



    黒須巳之吉先生の石碑 千葉県香取郡南玉造 龍華寺境内

    森島久代先生の御祖父織田先生の石碑 千葉県成田山

    森島久代先生は長くコロンビア大学にて産科麻酔学の臨床、研究、教育に尽力され、その発展に大いに貢献されました。それによって、日本政府より瑞宝中綬章を受章されました。また、2012年12月8日 第116回日本産科麻酔学会学術集会で特別講演に招聘され、その帰りに当院に直接電話をかけて下さり、黒須巳之吉先生の人柄や業績などもお伺いいたました。



北軽井沢一匡邑と黒須老博士

 

大正末期に東京帝国大学出身の学者が集まって、北軽井沢に約5千坪の広大な土地に共同の

村を形成し、当時、一匡邑と称して10数軒の粗末な別荘が建てられていたという。村の中央に細い川が流れて、村の入り口の一番近いところに黒須巳之吉博士の小さな別荘があって、毎年、夏になると家、族とともに、避暑に訪れていた。この小さな黒須山荘は玄関も雨戸もなく、土間に面して二間の板の上に“ゴザ”を引いた質素な部屋であった。当時はここで、夏の一時期、美しく静かに流れる小川を中心に共同生活が繰り返されていた。

時が少しずつ流れ、別荘地を訪れる世代も徐々に変わり、人々も変わってゆく。また、周囲の環境も変化し、特に浅間高原一帯の開発は急速で大きなビルやホテルが建設され始めた。その結果、村の中央を流れていた小川は段々と水嵩が減り、以前の水量の十分の一にも減ってしまった。

川の上流で巨大な建物が川みずを占拠してしまい、もはや村を潤すきれいな水はなくなってしまった。(大学村五十年誌 北軽井沢大学村組合、小林 勇氏参照)

岩波書店の社長会長であった小林 勇氏は北軽井沢で大学村の別荘を訪れて、そのとき懇意にしていた黒須老博士の山荘に訪問し、一匡邑のクルミの木のことについて、氏の随筆 山中獨膳の中で書いております。クルミの木はここの地域ではたくさん見られるが、クルミの実は村の管理人が冬の野生リスのために保存しておくのだという。

 

 

 

 

 

歴史

“一匡”の意味 イッキョウ  天下をただし、治む

論語の一節“天下一匡”国を一つに正し、治める、から採ったといわれる。

一匡邑の設立

村の構想デザイン 西村伊作 大正デモクラシー期を代表する文化人で東京の文化学院創立者

軽井沢のルヴァン美術館はこの学院の建物を復元したもの

 

 

 

 

 

一匡邑と大学村

一匡邑は大正12年東京帝国大学関係者

大正2年旧一高、東京帝国大学の同窓生らによって“一匡社”が作られ同人誌“社会と国家”を発行していた

大正11年家族の保養目的に別荘地を探していた

大正12年草軽電鉄から1万坪の土地を購入、共有の資産として一匡邑として、個々に11戸の山荘をたてた。

大学村は昭和3年、法政大学関係者によって開村された。

 

 

 

地理 浅間山の麓の標高1000~1400mの高原地帯

県所在地 群馬県吾妻郡応桑村北軽井沢

 現在     吾妻郡長野原町大字

 

北軽井沢は以前 地蔵川地域であった、 1918(大正7年) 新軽井沢――草津温泉の

草軽電気鉄道があり、現在の北軽井沢の停車駅跡に“地蔵川駅”があった

 

 

 

 

 

 

 

 

北軽井沢マップ

高原風景

一匡邑の位置は軽井沢からロマンス街道146号線を下り、北軽井沢十字路交差点を左方に

曲がり、地蔵川を越え、桜岩地蔵尊を通過した左手に邑がある。

当時の写真      

 

 

黒須山荘は邑の入り口近く、小さい山荘で玄関も雨戸もない、土間兼居間に手作り椅子と

テーブルがあり、その隅に炊事道具が置いてあった。

 

現在の別荘地写真