〒123-0841 東京都足立区西新井15-15-9
内科・外科・胃腸科・循環器科・リハビリテーション科
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午前09:00~12:30 | ○ | / | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
午後15:00~18:30 | ○ | / | ○ | ○ | ○ | / | / |
※日曜日も午前中 診療行っております。
黒須巳之吉博士と森島久代先生
日本と米国の麻酔科学会の重鎮で米国コロンビア大学麻酔科名誉教授の森島久代先生は
1959年米国に留学される際に、ドイツとスイスの大学に留学経験のある耳鼻咽喉科医の黒須巳之吉先生からアメリカで研究、臨床研修を強く勧められたと述べておられました。
黒須巳之吉先生の石碑 千葉県香取郡南玉造 龍華寺境内
森島久代先生の御祖父織田先生の石碑 千葉県成田山
森島久代先生は長くコロンビア大学にて産科麻酔学の臨床、研究、教育に尽力され、その発展に大いに貢献されました。それによって、日本政府より瑞宝中綬章を受章されました。また、2012年12月8日 第116回日本産科麻酔学会学術集会で特別講演に招聘され、その帰りに当院に直接電話をかけて下さり、黒須巳之吉先生の人柄や業績などもお伺いいたました。
北軽井沢一匡邑と黒須老博士
大正末期に東京帝国大学出身の学者が集まって、北軽井沢に約5千坪の広大な土地に共同の
村を形成し、当時、”一匡邑”と称して10数軒の粗末な別荘が建てられていたという。村の中央に細い川が流れて、村の入り口の一番近いところに黒須巳之吉博士の小さな別荘があって、毎年、夏になると家、族とともに、避暑に訪れていた。この小さな黒須山荘は玄関も雨戸もなく、土間に面して二間の板の上に“ゴザ”を引いた質素な部屋であった。当時はここで、夏の一時期、美しく静かに流れる小川を中心に共同生活が繰り返されていた。
時が少しずつ流れ、別荘地を訪れる世代も徐々に変わり、人々も変わってゆく。また、周囲の環境も変化し、特に浅間高原一帯の開発は急速で大きなビルやホテルが建設され始めた。その結果、村の中央を流れていた小川は段々と水嵩が減り、以前の水量の十分の一にも減ってしまった。
川の上流で巨大な建物が川みずを占拠してしまい、もはや村を潤すきれいな水はなくなってしまった。(大学村五十年誌 北軽井沢大学村組合、小林 勇氏参照)
岩波書店の社長会長であった小林 勇氏は北軽井沢で大学村の別荘を訪れて、そのとき懇意にしていた黒須老博士の山荘に訪問し、一匡邑のクルミの木のことについて、氏の随筆 ”山中獨膳”の中で書いております。クルミの木はここの地域ではたくさん見られるが、クルミの実は村の管理人が冬の野生リスのために保存しておくのだという。
歴史
“一匡”の意味 イッキョウ 天下をただし、治む
論語の一節“天下一匡”国を一つに正し、治める、から採ったといわれる。
一匡邑の設立
村の構想デザイン 西村伊作 大正デモクラシー期を代表する文化人で東京の文化学院創立者
軽井沢のルヴァン美術館はこの学院の建物を復元したもの
一匡邑と大学村
一匡邑は大正12年東京帝国大学関係者
大正2年旧一高、東京帝国大学の同窓生らによって“一匡社”が作られ同人誌“社会と国家”を発行していた
大正11年家族の保養目的に別荘地を探していた
大正12年草軽電鉄から1万坪の土地を購入、共有の資産として一匡邑として、個々に11戸の山荘をたてた。
大学村は昭和3年、法政大学関係者によって開村された。
地理 浅間山の麓の標高1000~1400mの高原地帯
県所在地 群馬県吾妻郡応桑村北軽井沢
現在 吾妻郡長野原町大字
北軽井沢は以前 地蔵川地域であった、 1918(大正7年) 新軽井沢――草津温泉の
草軽電気鉄道があり、現在の北軽井沢の停車駅跡に“地蔵川駅”があった
北軽井沢マップ
高原風景
一匡邑の位置は軽井沢からロマンス街道146号線を下り、北軽井沢十字路交差点を左方に
曲がり、地蔵川を越え、桜岩地蔵尊を通過した左手に邑がある。
当時の写真
黒須山荘は邑の入り口近く、小さい山荘で玄関も雨戸もない、土間兼居間に手作り椅子と
テーブルがあり、その隅に炊事道具が置いてあった。
現在の別荘地写真